コラム

2014年8月25日号

 戦後69年—。筆者の亡き母は長崎で被爆した。爆心地からそう遠くなかったが、幸い丘の影に家があり、家にいた母は原爆の熱射を浴びず外傷も無く、晩年、因果不明の奇病に悩まされたが、それまでは普通に生きた▼その母が一度、原爆に触れて語った。長崎は坂の多い町だ。当時12、13歳の女学生だった母は坂道をいくつか登り、いくつか折れて学校へ通った。途中に友人宅があり合流して通学するのだが、ある場所にくると友人の女生徒が弾くピアノの音が流れてきて、よく足を止めて聴いたという▼ピアノが上手で頭もよく、綺麗で思いやりもあった…。当時の母はその女生徒に憧れを抱いていたそうだ。国家の非常時にピアノとは何だと、友人宅は周囲から白い目で見られたが、友人は「同盟国ドイツのクラシックです」と言い切り、弾くのを止めなかったのがある種、痛快だったと話す▼原爆投下からしばらく、友人が住む地区に行くと、黒々とした焼け野原だった。友人もピアノも嘘のように消えていて言葉が出なかった。彼女の死亡確認は少し後になったと、母が口惜しそうに振り返った▼歴史(事実)は一つかもしれないが、歴史に記録されない記憶の数は関わった人の数だけ存在する。海を見下ろす長崎の家で、少女はどんな思いでピアノを弾いたのか。そんな想像は慎むべきものではなく、他者の記憶を辿って故人への供養とし、子供達にも伝えたい。ただし、戦争の記憶を新たに継ぐ時間はほとんど無くなった。