オヤジの社会学

2017年11月10日号

むずかしい庭

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 よく手入れされた庭園を眺めるのは気持ちのいいものだ。ガーデニングという言葉もすっかり世に定着した感があり、庭づくりを楽しむ人は多い。
 庭の手入れの難しさは、やはり自然を相手にしているということにあるのだろう。草は生える、枝は伸びる、木は大きくなる。冬場は多少はじっとしているかも知れないが、一年を通じてひとつところにとどまるということがない。あるいは、大風でも吹けば葉は落ちる、枝は折れる、木は倒れる。
 自然の勢い、自然の猛威を前にすれば人間はあまりに無力だ。庭づくりは、そうした動きのある自然を一定の状態にキープするという土台からしてかなり困難な行為なので当然、手間と時間がかかる。好きでないとなかなかやっていられない。
 腕のいい植木職人の手が入ったよそ様の立派な庭に玉造りや玉散らしといったオーソドックスな古典的造形の植木を目にすることがある。そんな庭を眺めるのは好きである。見事だと思う。しかし、どこか息苦しさ、堅苦しさを感じる。そこまで刈り込まなくても、もっと自然な形のままでいいのではないかと思うのである。
 西洋庭園は生垣や植木の配置が左右対称のシンメトリーだったり、幾何学的な文様を描くようなレイアウトだったりするところも多い。それが西洋の美意識なのだ。日本庭園のそれは枯山水に見られるように木や石や水の配置は自然を範とし、シンメトリーや幾何学文様は極力排除される。それが日本の美意識なのだ。

 ここらあたりの自然との対峙の仕方の洋の東西による違いはよく論じられるところではあるけれど、それは結局美意識の違いであって、庭園づくりがかなり人為的、人工的に行われるという点は洋の東西を問わない。庭のレイアウトは日本庭園の方が自然に近いのかも知れないが、彫刻と見紛うような植木の剪定について言えば日本のほうがよほど人為的ではなかろうかとも思う。

  では、床屋に行った直後の刈りたての頭に感じるのにも似た東西庭園の息苦しさ、堅苦しさとはいったい何に由来するものなのだろうか。

  それは、いま言ったように、自然を手の内にとどめようとした時の人間の困難さ、人間の限界に由来しているのだと思う。庭が見事に手入れされていればいるほど、自然と乖離した人為というものが際立ってしまう。もちろん、ボサボサ頭よりは多少はましなのだろうが。