オヤジの喜怒哀愁

2018年4月10日号

乳母車と車椅子

17356

 自力で立つことが難しく、認知症でわけのわからないことを口にする父が小生の家にきて半月が経過した。介護生活は始まったばかりだが、早くもこんな生活を長く続けることができるのだろうかと不安が先に立つ。
 食事の世話をしたり下の世話をしたり、歩くのを手伝ってやったり子育てと介護はとても似ている。乳母車が車椅子に代わるだけで、やっていることはほとんど同じかも知れない。しかし、決定的に違うのは乳母車と車椅子を押して向かっていく方向で、これが真反対なのだ。
 方向とは世話をしているその先にあるもののことである。簡単にいえば子育ての先にはその子の将来、未来、人生が待ち受けており、介護の先にはその人の死が待ち受けているということである。つまりは生と死というまったく逆向きの方向性の中で家族が世話をするということである。
 赤ん坊は世話を焼くうちにだんだんと自分でできることが増えてくる。つかまり立ちをしては転んでいたものが、そのうちに一人で歩くようになる。だんだんと世話を焼く方の手がかからなくなってくる。
 老人は世話しているうちにだんだんとできなくなることが増えてくる。昨日は歩いていたのに今日は転び、明日は立てなくなる。その分、昨日よりも今日、明日、明後日とだんだんと手がかかるようになってくる。
 子育て世代といえばだいたい20代から40代で、自分たちもまだまだ若く元気だ。介護世代といえばだいたい50代から上だろう。老老介護となれば70代、80代もざらだ。自らの体力的な衰えを感じる年齢、場合によっては自分が誰かに世話をしてほしいくらいなのにつれあいや親の面倒を見なければならなくなる。介護の大変さ、辛さ、切なさはそういうところにある。
 これは当たり前の話である。親が子の面倒を見るように、年老いた親の面倒を子が見るのは育ててもらった親への恩返しの機会である。いずれは自分もそうなるのが世のならい、順番なのである。
 と、頭ではわかってはいるのだが、実際はそう簡単なものではない。おむつをした赤ん坊とおむつをした老人と、ふつうはどっちが人気があるか。赤ん坊のおしゃぶりを洗うのと同じように食べかすのついた老人の入れ歯が洗えるのか。そういった厳しい現実と日々直面しながら介護、介護と日は暮れていくのであった。