オヤジの喜怒哀愁

2019年1月1日号

不自由に生きる

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 人は誰でも自由に生きたいと思う。しかしながら、人間というものはいろいろな束縛の中に生きているので、自由になるということは無理なのだろう。
 学校や会社に行きたくないと思っても平日は行かなければならない。行くべき日に行かなければ親や上司や先生の小言を聞かなくてはならない。学校や会社を辞めたって構わないが、おまんまの食い上げになったのでは生きていけない。
 あまり気の進まないことでも家族や仲間、隣人、地域のためには引き受けなければならないことがたくさんある。自由に生きたつもりが結局は自分勝手で周囲に迷惑をかけてしまう。そんなことを繰り返して周りに迷惑をかけないように生きれば、自由は束縛され失われていく。
 死んだ後の世界がどうなっているのか、神様や仏様に聞いてみたいもんだが、たとえ死んでも家族、家、墓、所持品、履歴が現世に遺る。案外、死んでも自由になることはないのかも知れない。新年早々、もし気を滅入らせてしまったのなら御免なさい。

抱きしめながら…
 人間とは不自由なものだ。だが、まったく自由がないかといえば、そんなことはない。
 たとえばそれは近所のやきとり屋にある。ひとりカウンターに座り一杯ひっかけて串を頬張る時、そこには何者にも束縛されない自由がある。日頃自分を束縛する妻や家族や会社とは無縁の自由な世界がある。
 たとえばそれは10歳の時に流行ったヒット曲がラジオから流れた時。タイムマシンに乗ったようなマジックで自分を10歳の時そのままの気分にしてくれる。そこには紛れもなく自由な自分がいる。たとえそれがデジャビュのように消え去るにせよ。
 たとえばそれは下手なギターを爪弾きながら歌い、昨日まで知らなかったコード展開がうまくメロディーにハマった時。レコードデビューは無理としてもそこにはたしかに自分の音を表現できた自由がある。
 趣味に生きる、というのとも少し違うのだ。自分の本当に好きなもの、真剣に愛したものの中には必ずささやかな自由があるということなのだ。このささやかな自由をいっそう抱きしめながら新たな年をまた不自由に生きてみたい。