コラム

2020年6月10日号

 共感性が文明を作る、と書いたメモを古いノートのなかに見つけた。自分の言葉ではない。何かを写し取ったのだが、なぜ書き留めたのかさえ今となっては不明だ▼書き写した自分に向き合うように、共感性について考えた。確かに、人々の共感性が原動力となり、社会改革や文明を生み出した例は過去、枚挙にいとまが無さそうだ▼幕末の志士について、彼らの共感性が絶頂に登りつめる動きと、変革の実現が同期するような筋立をした歴史小説も少なくない。フランス革命にも人々の共感性がにじむ▼しかし、今も同じことが言えるだろうか。テクノロジーがもたらす新文明は目前にあるが、共感性からは程遠い、なんだか利己的な色彩をした損と得、優と劣、楽と苦、強と弱といった2項の中で、多くが同じ方向を向いて競っているだけのようにも映る▼国家間の関係も、また政界の議論も、とみに最近はぎすぎすして共感性が乏しい。脅しやすかし、中傷合戦。つまらない疑惑。失言をここぞとばかり攻め立てるが、それが共感を呼ぶようなこともない▼共感性が文明を作るとの言葉が、仮に時代を超えた真実ならば、今は文明とは呼べない黒々としたものに飲み込まれようとしているのか▼白人警官による黒人暴行死を機に、米国全土で沸き起こる暴力的な抗議デモ。そのなかで頭を垂れ、ひざまずき、デモへの共感を示した警察官が人々に感動を与えた▼しかしそれも、束の間の一陣の清風のようである。

(2020年6月10日号掲載)