コラム

2020年6月25日号

 自分ではそのことをよく知っているつもりでも、それについて説明を求められると、どう答えるべきか途端に言葉に窮してしまう…との一文を、古代ギリシアの哲学者が残しているそうだ▼ここで言う、知っているつもりだが説明に窮するものの正体は「時間」であった。なるほど、大理石の胸像の、彫りの深い「知の巨人」らが、かつて時間の概念を巡り熟思に耽った様が浮びそうだ▼でも、説明できないのに知っているつもりの言葉は溢れるほどある。人生とか信仰とか愛や時間といった深遠なテーマに成り得る言葉だけではない▼パンデミック、オーバーシュート、クラスターなど、新型コロナ報道で湧き出た横文字も、しっかりした説明は難しそうである(?)▼そういう意味で、私たちは何となく知ったつもりの言葉に囲われて生活しているのかもしれない。今は情報量が急増し、テクノロジーの進化も急だから、そういう「分かったような、分からないような」言葉や概念が次々登場してくる▼逆に「分かったつもりになることの大切さ」を説く有識者もいる。IoTや5Gもそうだが、原理を学ばずとも、その言葉を何度も口にするうち、なんとなく馴染んで理解した気分になるから不思議だ▼そうなれば、目の前の壁が消え、人は次の事を考えられる。だから「分かった気になれ」というわけだ▼でも、と再び思う。意味づけや概念が不明瞭なまま突き進む今の社会は、どこか危なっかしくないかと。