コラム

2016年2月25日号

 職場でハラスメントの研修を受けた。ハラスメントかどうかは受けた側が決めることで、やった側の判断に拠らない―との教えが痛く染む。最近、部下に雷を落としたが、あれはどうなのか…内省もしてみた▼しかしどこか疑問も覚える。子供を叱り、泣き出したらDV(家庭内暴力)の嫌疑をかけられたなどという話も身近に聞く。ピリピリとせせこましい世の中になったとの思いが消えない▼ハラスメントは、国内では30年ほど前に使われだした新しい言葉だが、いまではセクハラ、パワハラ、アルハラ(飲酒強要等)、逆パワハラともう20~30種を数えるそうだ▼普通に生活し、普通に人と接していれば、何ら問題は起きないのだけれど、深刻な問題の影で、なんでもハラスメントにしてしまう風潮も一部に出ていると思う。と書くと、お前は分かっていないとお叱りを受けそうだが、ちょっと違うんじゃないか、そう口にすべき場面もあるのではないか▼戦時中、反戦を唱えたものを非国民として扱ったが、戦火が深まるにつれ、西洋の民謡をそれとは知らず口ずさんだけで、密告され非国民にされた人もいたと筆者の祖母が生前話していた▼どこか似ていないか。冷静な判断よりも「であるべき」を共有して守ろうとの意識がガチガチに先に立つと、気づくとみんなで誤った方向に行っていた、となるかもしれない▼バーガーショップで買ったコーヒーをこぼしてやけどした客が訴え、製造物責任(PL)で提供側が莫大な慰謝料を払わされた米国の非常識なケースを、いま思い出した。