オヤジの喜怒哀愁

2016年10月25日号

砂まみれの老婆

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 仕事場の近くの小さな海岸に出かけた。海辺の風は気持ちがいい。真夏だって涼しいし、今時分の風は昼寝でもしたくなるような心地よさがある。車窓から見る秋の海に人影はまばらである。堤防に釣り人がひとりふたり、砂浜に数人。のんびりとしたものだ。
 砂浜にいる数人の男たちは何かを取り囲むようにして立っているようだった。その輪の中心に何があるのかは遠目にはわからなかった。ウミガメかもしれない。このあたりの海岸には海が荒れたあと時折ウミガメが漂着する。「寄り鯨」といって稀に鯨が漂着することもある。
 男たちはそれを大事そうに抱きかかえると浜から道の方に上がってきた。こちらが車を降りると、ひとりが小走りで向かってきて「地元の方ですか」と聞く。ということは、向こうは地元の人ではないわけだ。「地元じゃないんですけど…」と答えつつ近づけば、それはなんと人であった。口からは泡を吹き体は砂まみれになっている小さな老婆である。地元の人ならあるいは身元がわかるかもしれないと思ったのだろう。
 男たちはどこからか来た釣り人であった。男たちが海に来た時、老婆は岩場で貝か何かを拾っているように見えたという。海をのぞきこむようにしているので海女さんかなとも思ったという。それから20分ほどして岩場近くに白いものが浮かんでいるので、おかしいと気づいて救出に及んだのだ。
 老婆ははじめ息をしていなかったという。砂浜に上げて体を横向きにすると口から海水を吐き出し、息を吹き返した。たしかに今は息をしている。男の中のひとりが冷静に、もう気道を確保した方がいいだろうと言って老婆を仰向けに直した。老婆の意識は昏睡状態でこちらから何を問いかけても返事はない。
 それから間もなくサイレンが近づいてきて救急車が到着した。濡れて張り付いている衣服をハサミで切り裂きAEDを装着したが電気ショックは行わなかった。消防車やパトカーも来た。制服を着た人が10人も来たろうか。海辺にはサイレンを聞きつけた近所の人も集まってきた。騒然とした空気の中で、第一発見者となった男に事情聴取、実況見分が行われている。老婆はストレッチャーで救急車に運ばれどこかへと搬送されていった。小さな砂まみれの老婆はどこから来て、ここで一体何をしていたのだろう。岩場には老婆のものと思われる靴が1組、 主人を失ったまままだとり残されているのが見えた。